2026年5月11日

TDU・雫穿大学 不登校・オルタナティブ教育研究会

前文・問題意識

 日本の教育は長く問題であると指摘され続けてきている。教育を変える試みも繰り返されてきた。しかし、状況は大きくは好転していない。
 教育制度の部分を変えることでは根本的な改善にはならないということが証明されている。毎年発表される文科省の統計がある。不登校、いじめ、いじめ重大事態、校内暴力、自殺、教員の中途退職、精神疾患による教員の休職、などはいずれも右肩上がりで増え続けている。学校という器の中にいる子どもと大人のSOSが増え続けていると受け取るしかない。また、国際比較調査でも日本の学校の中にいる子ども・学校を卒業した若者の自己肯定感は低く、教員の労働環境は過酷である。
 日本の教育制度の主要な問題は下記にあると考える。

  • 日本の教育制度は、個々人が自分が追究する幸福のために学ぶ制度ではなく、社会がその構成員の学ぶべき内容を定め、その習熟度によって人的資源としてクラス分けし、相応しいとされる職に振り分ける社会装置として作られ、機能している。
  • 人間の教育が就職までの教育期間とされる時期、そして、学校に矮小化されている。日本では学校を卒業するまでは教育を主として生活し、卒業すると労働を主として生きるものとして社会が組まれている。
  • 教育の最終的な結果は最終学歴の学校の社会的評価であり、勉強はそのための準備と位置付けられてしまう。つまり、勉強は入試制度による優劣という他律的な評価を少しでも良くする、あるいは悪くしないための行為に最終的には集約されていく。
  • 自己価値を上げるため(下げないようにするため)の勉強を行うことで、社会の枠組みに自らはまっていかざるを得ないのが日本の教育制度ということになる。
  • 子どもたちは「自分の将来」を人質に取られるがごとく、生活・価値志向を一定の方向に合わせなければいけない。入試の成績を良くするために小さい頃から勉強に多くの時間を費やし、興味関心を限定し、他者と比較する態度を身につけ、コンプレックスを刻み込まれる。

 一方、社会は常に変動しており、社会的生物としての人間も本来的に多様で、また自ずと変化をし得る存在である。人も変化する社会に呼応して自ら望むように変化していけるべきである。であるならば、教育とは以下のように考えることができる。

  • 一生にわたり変化し続ける自分とは何かを問い続け、望めば深められる機会を持てるようにすること。
  • 自分なりの社会、世界の理解を構築し続けること。

 これらの営みは生涯にわたって必要であるが、人生の基礎を築く若い時期にこの営みに集中できる時期を持つことは必要である。この必要に中心的に答えることのできる「教育制度」の提案をしてみたい。その時に重要なのは一人一人が市民社会を構成する個人として、その意思を持ち、教育の主体であることができる制度を実現することである。

5つの提言

その1:
大学入学試験の廃止/希望大学への全入学制実現/実際的な卒業審査の導入

 大学の入学試験を全面的に廃止し、希望者が望んだ大学に入れる全入学制への移行を提案する。前文にて述べた通り、現在の日本の教育制度の問題の根源は、教育全体が大学入試に集約され、その結果で人生がほぼ決まってしまう設計にある。しかも、卒業時には大学で学んだことを問われることもなく、大学での学び自体も空洞化している。
 そこで、まずは大学入学試験そのものを撤廃し、希望者全入学制とすることで、子どもたちが意味のない「入試のための勉強」に追われる状況を変える。参考になるのはオランダの制度で、1968年の中等教育法の施行から原則、希望した大学に入試を経ないで入学できる制度となっている(※)。
 同時に、大学卒業にあたっては、大学で学び・身につけたものを実際的に測る「卒業審査」(例:試験もしくは論文審査)を全ての大学で導入する。これによって大学卒業資格がその人が学んだことを実際的に表すものへと変わり、結果的に高度な研究・教育機関としての大学の質は向上すると考える。

※ フランス、ドイツ、イタリア、スイス、オーストリアなどでもそれぞれ違いがあり、医学部など例外がある場合があるが、大きくは入試に拠らず希望した大学に入ることのできる制度を持っている。オランダも医学部など一部で選抜がある。

その2:
初等中等教育での学びを「試験中心」から「関心のある内容を掘り下げ、自分の理解を持つ」学びに変更

 現在の小中高での授業は、そのほとんどが「試験で点数をとることを目指す」ものとなっている。もちろん文部科学省の学習指導要領においては「生きる力」等の重要性が掲げられているが、実態として、大勢としては児童・生徒たちに求められるのは「学力」を上げ、大学入試に備えることであり、それは結局「試験の点数を上げる」ことに他ならない。これでは授業で取り上げられている内容について一人一人の生徒は自分なりの理解を持ちにくい。教育で重要なのは、基礎的な読み書きと計算を学ぶ機会を提供することだけでなく、社会・世界の様々な事柄に関する「自分なりの理解」を持つことであると考える。それは、子ども本人の関心をベースにし、子ども自身が理解しようと調べ考える学びの中でこそ実現できる。

 そこで、初等中等教育における全ての科目の授業の目的とあり方を、子どもが関心のある内容について掘り下げて調べ自分の理解を持つことに変えていくことを提案する。具体的には、先生による子どもの関心を刺激するような説明と、それをもとにして子ども一人一人が自身の関心からテーマ・問いを設定しそれを調べ、自分なりに理解を深めていく学習を中心とする。

その3:
学んだことを表すための新たなしくみの創設

 大学入学試験を廃止するのに伴い、社会的には就職等の場面で、その人が実際的に何を学びどんな知識・技能をどのように持っているかを表す別の方法が求められ得る。その必要に応えるため、個々の多様な学びを表すポートフォリオのつくり方・読み方を研究し、教育成果として社会が受け取る仕組みを作ることを提案したい。また、それでもさらに知識やスキルを確認したい場合は、科目別に全国共通資格試験制度の整備模索する方向もあり得るだろう。

 ポートフォリオは芸術分野で作品を集めその芸術家の表現を表すものとして使われてきた。表現に関係する就職で使われることは珍しくない。ヨーロッパでは芸術・表現のみならず学科の学びでも用いられてきている。それぞれの多様な学びをそれぞれにふさわしい形で他者に伝わるように表現する。ポートフォリオに拠るあらゆる学びの可視化は日本では実践が少なく、ポートフォリオでの表現、また受け取り手がどのように読むのかを研究者、教育実践者などが研究し仕組みを作ることとしたい。

 ポートフォリオに加えさらに知識やスキルを必要とする場合は、多種多様な科目の中から受験者が自身に必要な科目の資格試験を受け確認を得られるような制度も開発が必要となり得るだろう。資格取得は義務ではなく任意で、あくまで受験者が必要に応じて選択する。資格試験であるから受験する年齢にも制限を設けず、複数回の受験を可能とする。この構想と同じ資格試験制度は無いが、イギリスのGCSE等は参考になる部分がある制度と考える。

その4:
就職・採用における新卒一括採用方式の撤廃/新しい採用方式「お互いを知り合うインターン採用」への移行

 現在の日本の教育が大学合格を目指すことに集約されてしまうのは、主として大企業の採用が、学歴を参照する新卒一括採用を基本としているからである。
 そこで、この新卒一括採用方式そのものを全面的に撤廃し、その代わりとして新しい形のインターン採用方式と言える「お互いを知り合うインターン採用」に移行していくことを提案する。「お互いを知り合うインターン採用」とは、アルバイトとして働き始めてインターンに移行し、その後に正式な社員となる制度だ。まず、働くことを希望する人は、その職種・職場で、基本的にアルバイトとして働き始める。その中で意欲があり、その職種・職場に合うと被雇用者側・雇用者側双方が確認できた人はインターンに移行し、さらに働く中での確認を経てから正社員へと移行していく方式である。

 これによって、雇用者側にとっては、正社員として雇用した人が仕事や職場との不一致によってすぐに離職してしまうというリスクを回避しやすくなる。被雇用者側も限られた情報で職場を決めなければいけないプレッシャーとあまり知らない会社でいきなりフルタイムとして働くかなければならないリスクを負わずに済むメリットがある。

その5:
制度 子ども 合わせる教育の実現

 提言1~4が実現すると不登校を経験する子どもの数はかなり減少すると考えられる。例えば、野球のストライクゾーンを狭く規定するとストライクの数は減り、ボールの数が増える。学校という場は、いわばストライクゾーンを狭くし続けたことで、子どもの在り方は狭隘に息苦しくなり、それが不登校の増加につながってきた。また一方、どんな制度をつくっても合わない人は必ず存在する。不登校の子どもたちの学び・育ちも考える必要がある。
 そこで、制度が合わないいわゆる「不登校」の子どもたちの学び・育ちの保障としては次の4つのことを提言する。

  1. 不登校の子どもが親と相談して学校か教育委員会に籍を置けるようにする。
  2. 教育機会確保の経済的支援をフリースクールに通う子どものみならず、18歳までを対象とし、実施する。
  3. 不登校の子どもと親はフリースクール、教育支援センター、オルタナティブスクールなど自分が選んだ機関からアドバイスを受け、必要な休息をすることを含め、個別の学び・サポートの計画を立てることができるようにする。
  4. 教育支援は家庭と、アドバイスをする機関を対象に実施する。機関は民間機関の場合、自己評価に基づく第三者評価機関による認証(※)を受けるものとし、経済支援の対象とする。

(※ 確保法施行後に文科省から委託された加瀬進氏を研究代表とする調査で提案されているフリースクール等の民間施設と大学が組織するコンソーシアム型の団体を作り、認証する。)

もっと詳しく- Q&A

この提言が実現した場合、教育格差の問題はどうなりますか?

現在よく指摘される「経済的に豊かな家庭ほどエリート教育ができる」という問題は、そういった家庭の方が塾・家庭教師等のサービスを活用して受験対策を充実させられるという状況によって発生しています。本提言が実現すれば、希望すれば誰もがレベルの高い高等教育機関(大学)に行くことができるため、むしろそう言った家庭ごとの経済状況の影響を小さくできるでしょう。

初等中等教育段階で高度な知識に触れる機会がなくなると、実は高度なエリート教育に適性のある子どもがその能力を開花させる機会を失うのではないでしょうか?

現在の教育カリキュラムには確かに高度な内容も入っていますが、学ぶ順番も範囲も決められているなど、定型に縛られたものです。これは関心のあるものをマニアックに、自由に高度にやりたい人には向いていない設計です。むしろ、希望すれば誰でも大学に行ける方が才能ある子どもは開花しやすいと言えます。

今の日本の教育制度は諸外国からも注目・評価されているように思います。あえて変える必要はないのではないでしょうか?

現在の日本の教育カリキュラムは、いわゆる「ジェネラリスト」のような総合的能力に優れた人材を養成するものとなっています。突き詰めれば「だいたいのことを器用にこなす人材」の育成に力点がある設計ということです。それは、実際には高度な知識と技能に特化したエリート育成にも向いておらず、そもそも多くの人々の学力保障にもなっていない状況があります。それは教育制度として機能しているとは言えないでしょう。

「自分の理解を持つ」というのはむしろ難しいことではありませんか?

「科目内容について自分なりの理解をつみ重ねる」ことは確かに簡単なことではないでしょう。しかし、どんな子どももやがて成人した後には、人生の様々な局面で自分の考えを問われることがあります。その時にこの世界・社会の基本的なことについての自分なりの理解がないと、「なんとなく」「誰かが言っていたから」「みんながそうだから」等の理由で選択するしかなくなってしまいます。それは社会としてもその人個人としても危険な状態ではないでしょうか。ゆえに、一人一人が社会についての理解を深め自分の考えを持つことを助ける教育は必要不可欠であると考えます。

「自分の理解を持つ」学びを持つための教育のやり方について、さらに詳しく教えてください。

「自分の理解を持つ」学びを助けるというのは、端的に言えば子ども自身の「これって何だろう」という疑問を大事にし、子ども自身が答えを見つけるのを助けるということです。全ての科目の授業の時間を子どもが「内容を理解する」ための時間にするということでもあります。

 例えば、理科のカリキュラムには星の動きに関する内容があります。まずは、それについて教科書を使いながら先生が導入的かつ子どもの関心を刺激するような説明・解説をします。その上で、子どもたち一人一人がテーマ・問いを設定します。問いが思いつかない場合は先生がいくつかの問いの候補(例えば「星が光っているのはどういうことか」等)を提案し、その中から自分の関心のあるものを一つ選んでもらう形でもよいでしょう。その問いについて、教科書や資料集を使いながら、また分からないことは先生にも聞きながら、自分なりに調べてから、先生に対して一対一で自分が理解した問いの答えを説明します。先生は説明を聞いて、それが内容を理解したものになっていればそのことをフィードバックで伝え、逆に間違えている点があれば、それを伝え、改めて内容を説明します。特によかった点などを褒めることも重要でしょう。そして、重要なことはこれには成績や評価は全く必要ないということです。ただ子どもが内容を理解することが核心だからです。

 実は子どもは、試験の点数や成績などの余計なプレッシャーがなければ、様々な場面で「これってなんでだろう」という素朴な疑問をもつことがあります。それを殺さず、その興味から始まって内容への理解を深める、という教育なのです。

「自分の理解を持つ」学びを進める授業は、総合的な学習の時間と何が違いますか?

現状の総合的な学習の時間は、あくまでその授業時間内でのみ行われるものです。それではあまりに限定的で、意味がありません。全ての授業が基本的に子どもの関心を大事にした「内容についての理解の構築」を目指す方法で行われるべきである、というのが本提言の主旨です。

このような授業内容の改革には教員の再教育などを含め、相当な時間とコストがかかり、非現実的ではありませんか?

 いいえ。実は基本的にはコストはあまりかかりません。まず現在学校教育で活用している教材を変える必要はありません。日本の教科書は既にかなりの情報量があるため、それを資料集的に使用しながら、オペラのガラコンサートのように、内容の魅力の「さわり」が伝わるように先生たちが説明すればよいのです。そこで先生が行うのは、子どもの素朴な「なぜだろう」という好奇心に寄り添い、一緒になって仮説を立てることに付き合って、それを自分なりに検証することに付き合うことです。

 こうしたやり方は、実は夏休みの自由研究や総合的な学習の時間などで先生たちは既に実践していることです。それを全科目・全時間に拡大すればよいということであり、そのために必要な教員研修などにはそれほど膨大な時間はかからないと思われます。

科目別資格試験制度は子どもたちにとってハードルが高いのではないでしょうか?

この資格試験の参考にした制度の一つには英国のGCSEがありますが、このGCSEの内容は実は学校で学ぶ内容と乖離がないものです。私たちが考える資格試験も、あくまで学力を測るというより持っている力を表すものであり、一部の入学試験問題のように重箱の隅をつつくような知識等は問わないものとして設定できるのではないでしょうか。

大学を希望者全入にしたら、一部の偏差値の高い大学に希望者が殺到して混乱するのではないでしょうか?また、誰でも入れると、大学の価値が下がりませんか?

 確かに全入学制に移行してしばらくは一部の大学に希望者が集中する可能性はあります。しかし、それについてはオンラインシステムの積極的な活用等によって対応することは十分に可能だと思われます。

 また、大学の価値については、卒業審査(論文等)を導入し、厳格に運用すれば、卒業するためにはかなり高度な授業でしっかり学んで力をつけなければならなくなるため、学術研究・教育機関としての大学の質が低下することはありません。むしろ今より質が向上し、国際的な評価が上昇することも十分に考えられます。例えば、ヨーロッパの大学では、卒論の審査に内部の教授だけでなく外部の教授も入り、口頭諮問も行うことで卒論の質・大学での学びの質を高く保っています。日本においても、まず卒論審査(卒業審査)を内部の教授だけでも厳格に行えば、相当な質の担保・向上になるでしょう。

本提言へのご意見

本提言はTDU・雫穿大学の学生・OBOG・スタッフの有志による「不登校・オルタナティブ教育研究会」が作成しました。日本の教育について根本的に考える議論を広げたいと思っています。本提言に関して、ご意見・ご質問がございましたら、以下のフォームからぜひお寄せください。