TDU・雫穿(てきせん)大学の現役の学生やOBOGたちが、TDUでの学びで得たこと、感じたことを綴った文章を載せていきます。

現役学生たちの声

「雫穿大学と出会って」― 学生 原 健人

はじめまして。私は2021年の5月から、雫穿大学に入学し活動をしています。まだ入ったばかりですが、だからこそ書ける事はなんだろう? そう考えた末、私はこの大学に入学するきっかけを書くことにしました。

私は2021年で24歳になったのですが、2019年に大学院受験をして、2020年の4月に、それまで通っていた大学とは別の大学院に進学しました。そこは当時の私の第一志望でした。希望通りに事が進んだように見えたのですが、大学院が始まってからすぐ、私は大学院に関わることが精神的に苦しくなり始め、1ヶ月が過ぎる頃には、その事を考えるだけで辛い、ずっと苦しい、そんな状態にまでなっていました。1人ではどうにも立ち直れなかった私は、家族に泣きつき病院に頼り、結果一度休学をしました。でも、多少は楽になったものの、心の苦しみは変わらず、大学院に戻りたいとも思えず…ついに昨年の3月、私は大学院を辞めてしまいました。

心を病んだ理由。私は未だに、それをうまく開示できません。”そんな理由”で病んだ私は、他者から受け入れられない・許されない。だから私自身でさえも認められない。あの頃から私の中は、”自己否定”で渦巻いてしまいました。そんな折に、よく訪れていた公共図書館でたまたま見かけた一枚のチラシが、私にこの大学の存在を知らせてくれました。「自己否定感と向き合う」「自己否定を自ら研究する」場所。当時の私には、どうしたって無視できない内容でした。

それから数ヶ月を経て、私は雫穿大学に入ることを決めました。この場で様々な講座に取り組んでいて、すでにその多様な取り組みに、私は影響を受けています。ただ、どの講座や学びよりも、この大学に居られる、そのことが何よりも私に影響していて、その感覚が何よりも私の救いになっているように思います。誰からも、自分からも認められない。そんな”自己否定”が渦巻いて、私はこの世界のどこにも居場所がない気がしていました。でも、そんな私が存在できる、みんなの居るこの場所に助けを求める事もできる。そう感じられることは本当に、私がこの大学と出会って得た、何物にも変え難い経験だと思っています。


「〈生きる〉と〈描く〉を捉え直す」― 学生 A・Y

私は6歳の時から不登校だった。不登校を否定してくる社会に押しつぶされないため、ずっと「強い私」であろうとしてきた。そのためか世界と分断されている感覚を持っていた。

でも、TDUでの講座や表現活動、多様な人に出会うことを通して徐々に世界と和解し、その分断が解けてきている。それまでさっぱり分からなかった色んな人の言葉の意味、行動の意味を想像できるようになってきた。

TDU・雫穿(てきせん)大学での学びとは、自分のいる場所を確認し、自分を解放しようとすること。触れたい世界に手を伸ばし続ける事。


被害者意識や孤独を解体しながら、映像を学、生き方を創る」 -学生・豊 雅俊

TDU入学を決めるまで
TDU・てきせん大学に入る以前は、中学校一年生から不登校をして、東京のフリースクールに通っていました。その時に勤めていたアルバイト先から就職をしないか、というお誘いを受けましたが、そのまま就職するという選択はまったくありませんでした。今思うと、まだまだ何かやりきれていないモヤモヤした感情があったように思います。それに、フリースクールで知った「自ら決定していい」という価値観の中でもっとやっていきたいという思いがありました。

TDUでの活動
映像を作ってみたい、という気持ちがあったので、映像プロジェクトに参加しています。そのほかには、今の自分たちが生きている時代への流れが知りたく現代史に出ています。あとは、哲学や生き方想像コース、男性性の苦しさから解放されたかったので、ジェンダー&セクシャリティーにも出ています。

現在感じていること・大事にしていること
TDUに入った当初の理由は、映像作品を作ってみたいという気持ちでした。しかし、本心としては「不登校をした劣等な自分は、好きな映像で稼げるようになって世間を見返したい」という被害者意識のような気持ちでした。常に自分は何かしらの被害を受けていて、その「受ける」という立場をとても変える事が出来る気がしない、という諦めの気持ちでいっぱいいっぱいでした。その上、人と交わって活動したいが、人からどのように見られているかが怖くてとても一緒に何か活動をする事が出来ない、という状態でしたのでとても孤独でした。被害者意識や孤独は僕が生きたいように生きようとするときに身体が動かなくなるくらいの重たいものでした。これらの気持ちを見ないようにするのではなく、安心出来る人間関係の中で素直に向き合う事は大事だと思っています。TDU・てきせん大学という学生同士が場を作りあう所だからこそ見やすくなるのだと思います。

これからの生き方を創る
僕が「映像作品を撮る」という活動をしていく中で、何か自分が苦しい気持ちになった時にむくむくと湧き上がる被害者意識や孤独の気持ちから、一緒に作りあっている人たちの存在を忘れる、という出来事を繰り返すなか、何故そのような状態になったのかを大学の人々との関係の中で考えてきました。帰り道に寄った公園で吐露することもあれば、生き方創造コースの中で発表する、という事を繰り返し行ってきました。その度に大学を作りあっている人たちから受けとめてもらい、また、率直な問いかけをもらったりしてきました。このようなやりとりは、どのように生きていきたいか、という大きい事から、お金や働くといった、強いプレッシャーまでおよびました。 いかに身体を軽くし動きやすくするかある苦しさに切羽詰まった時、苦しさを背負い込むことでなんとかやり過ごすのではなく、元の苦しさに手を伸ばす事は実はすでに生き方を作っていることなのだと思います。身体が楽に動けるようになっていくスピードとどの様に生きていきたいか、具体的にどうすれば形になるかが見えやすくなる事は同じ速度で起っていくと思います。


「死ぬことばかり考えていた僕の、人生が変わった場所」-学生・てつお

僕はTDUの前身であるオルタナティブ大学に入学する前、生きる力を失っていました。
それは学校での経験を主とした、数々の苦しく悲しい出来事によってでした。

小学校からの帰り道、辛い毎日に疲弊しボロボロになっていた僕は「疲れた、疲れた…」とよく泣きながら家路についていました。中学校からの不登校、そして、そのまま家にひきこもる生活の中で何度も何度も、死んでしまいたいと思いました。

もう生きていたって仕方ない、自分は苦しむために生まれてきたんだ。
心からそう思いながら。

けれど、生きていく事に疲れ果てながらも、僕は人生を諦めきれませんでした。

僕の中には「もう一度人と関わりたい」という思いがありました。それは、とっくの昔に水を掛けて消したつもりでいたような思いでした。
長い間家から出られなかった僕は、その思いを手掛かりに、崖から飛び降りるような気持ちでこの大学に入学しました。そこでは、自分の中の「人間」という存在の捉え方も変わるような出来事が待っていました。

ずっと叶えられなかった事を、僕はそこで沢山経験しました。
ずっと叶わないまま終わるはずだった事は、僕が踏み出した一歩に応えてくれました。

TDUに来てよかったと思う一番の事は、「生きていたい」と思うようになった事です。
ずっと死ぬことばかり考えていた僕は、今、これからどう生きていこうかと思いを巡らせています。

そのような事は大袈裟でなく、人生が変わるという体験であったように思います。

OB・OGの声

「今の自分から始まって、自分の頭で考えることは時代を超える」-たけし

(※以下の文章は長井岳がTDU・雫穿大学を修了(TDUにおける卒業)した時に書かれたものです)

僕の人生でもっとも長く通った探究の場、TDU・雫穿(てきせん)大学での日々がこの3月で終わりを迎えた。この年月は僕にとってどのような意味があったのだろうか。まず、てきせん大学に参加するために一般大学を辞めるとき“奈落の底に飛び降りるような恐怖”があった。てきせん大学に対して、魂を持って行かれるような魅力を感じつつも襲ってくるその恐怖感は、大多数の人々が進む道を降りる恐怖であった。それでもなお、僕はここにくることを決断し、それを受け止めてくれる人々がいた。

当初に力を尽くしたソーラーカープロジェクトでは、〈人が怖い〉〈何もできない〉と思っていた自分が、〈人と一緒に心臓を擦りあわせるような何かをしたい〉〈やろうとすることは何でもできる〉と思うようになった。

講座「学歴社会・不登校」を外すことはできない。僕は〈自分の学歴や不登校の劣等感を変えることはできない〉と思っていた。しかし、この講座を通して僕は、それらの物事について“自分の頭”で考えることができた。自分の内面に巣食う学歴主義を解体していくことで、苦しさから解放される経験をした。自分を取り巻く物事について、自分で考えて、自分で判断して、行動していくという人間として至極当たり前のことが、むしろ、それまでの体験の中で奪われていたのだ。

「学歴社会・不登校」で出会った〈準拠集団〉という考え方を頼りに、学歴主義に染められた自分自身の流れを分析する論文を書き上げた。研究は僕のてきせん大学での探求の中心になり、毎年紀要に論文を書き続けた。この数年はアドバイザーの最首さんを招き〈研究イベント〉でという形での発表も重ねている。

その最首さんに、この間「今年度に終了することになりました」と報告をした。最首悟さんはしわだらけの顔をくしゃっと崩して「残念だなぁ」と答えた。僕は、はっとした。「そうだ、探求に終わりはない。むしろ僕の研究はこれからが本番だ」。

てきせん大学はその名前ゆえに、一般の大学と比較されることが少なくない。しかし、実際にやっていることは大学院の方がより近いのではないかと話すことがある。自分の関心を深めていくと、むしろ知らないことが広がって行く。知りたいという気持ちを持ちつづけている限り、探究に終わりがくることはないのだ。

てきせん大学を修了した今も、これからも研究し続けたいと思う。在野の研究者でありたい。複数の障害を抱えて生まれた星子さんの誕生をきっかけにして、生命の研究をし続けている最首さんのように。

明治初頭の自由民権運動当時、日本中のあちこちで、市井の人々が憲法草案を練った。仕事を終えた夜に勉強会を開き、議論し、自分たちの理想とする草案を書き上げた。そこには「この世界を自分たちがつくっている」という高揚感があったに違いない。彼らの書いた草案の中には永久平和のための武力放棄の条文さえあった。武器がなければ戦争は起きない。しかし、武力放棄を唄った憲法はいまだ日本にしかない。100年も昔の人々が考えたことが、今なお最先端なのだ。今の自分から始まって、自分の頭で考えることは時代を超えるのだ。

てきせん大で学んだことの大きな一つは、自分と他者を徹底的に尊重することだ。それが誰もが幸福である社会を実現することにつながると僕は思う。てきせん大においても、価値観の相違による葛藤は限りなくあった。その中で、他者を尊重しようとする時、自分とはあまり違った存在である他者を想像しようとする姿勢が大事であるということを実感してきた。“自分の価値観とは違った他者を想像し尊重する”ことは簡単ではない。他者への想像力を持ちがたい人に対するとくじけそうになる。そして、多数の圧力を感じる時、むしろ自分を尊重することをあきらめて多数におもねりそうにもなる。そのような時、尊重するなんて意味がないじゃないか、無力じゃないかと思うときもあった。でも、たとえ相手が自分のことを想像してくれないとしても、自分がそうしない理由にならない、と思う。

修了後は仲間と立ち上げた映像・デザインの社会的企業で働くことになる。働く人が生き生きとできる会社を求めて、数年前に仲間と創り出した。働くことは自分を削ることだ、と思っていたころから考えると、隔世の感がある。今は、このように生きていく自分自身が研究素材であると思う。人や自分を幸福にする生き方がどのように実現できるか、そしてどのような困難があるのか。僕がこれから歩く道は、多数の人々が歩く道ではない。しかし、歴史が記録されはじめてから今日まで、少なくない人が歩いた道の延長にある、とは思う。

インドの美術館の階段の踊り場の壁に、‘my life is my message’ (私の人生が私のメッセージだ)というマハトマ・ガンディの言葉が書いてあった。自分が歩く道が、光を放ち、てきせん大学に入るときに奈落に見えた空間に明かりが灯ればいい、と思う。

社会学者の見田宗介の「まなざしの地獄」は、永山則夫がどのように追い詰められていったのかを深める中から現代社会をありようをえぐりだしたすぐれた研究である。この人生が終わるまでに、一つでもそのような研究をしたい。

宮沢賢治は農民芸術概論綱要に「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」と書く。彼が歩いた道は、僕が歩く道につながっている。僕は、誰もが幸福に生きられる社会を求めよう。僕が一歩足を踏みしめるたびに、一歩ずつ僕の歩く地面は踏み固められていく。命が尽きる最後の瞬間まで、たゆまなく、考え続け、表現し続けて、生きていきたい。