「今の自分から始まって、自分の頭で考えることは時代を超える」

(※以下の文章は長井岳がTDU・雫穿大学を修了(TDUにおける卒業)した時に書かれたものです)

僕の人生でもっとも長く通った探究の場、TDU・雫穿(てきせん)大学での日々がこの3月で終わりを迎えた。この年月は僕にとってどのような意味があったのだろうか。まず、てきせん大学に参加するために一般大学を辞めるとき“奈落の底に飛び降りるような恐怖”があった。てきせん大学に対して、魂を持って行かれるような魅力を感じつつも襲ってくるその恐怖感は、大多数の人々が進む道を降りる恐怖であった。それでもなお、僕はここにくることを決断し、それを受け止めてくれる人々がいた。

当初に力を尽くしたソーラーカープロジェクトでは、〈人が怖い〉〈何もできない〉と思っていた自分が、〈人と一緒に心臓を擦りあわせるような何かをしたい〉〈やろうとすることは何でもできる〉と思うようになった。

講座「学歴社会・不登校」を外すことはできない。僕は〈自分の学歴や不登校の劣等感を変えることはできない〉と思っていた。しかし、この講座を通して僕は、それらの物事について“自分の頭”で考えることができた。自分の内面に巣食う学歴主義を解体していくことで、苦しさから解放される経験をした。自分を取り巻く物事について、自分で考えて、自分で判断して、行動していくという人間として至極当たり前のことが、むしろ、それまでの体験の中で奪われていたのだ。

「学歴社会・不登校」で出会った〈準拠集団〉という考え方を頼りに、学歴主義に染められた自分自身の流れを分析する論文を書き上げた。研究は僕のてきせん大学での探求の中心になり、毎年紀要に論文を書き続けた。この数年はアドバイザーの最首さんを招き〈研究イベント〉でという形での発表も重ねている。

その最首さんに、この間「今年度に終了することになりました」と報告をした。最首悟さんはしわだらけの顔をくしゃっと崩して「残念だなぁ」と答えた。僕は、はっとした。「そうだ、探求に終わりはない。むしろ僕の研究はこれからが本番だ」。

てきせん大学はその名前ゆえに、一般の大学と比較されることが少なくない。しかし、実際にやっていることは大学院の方がより近いのではないかと話すことがある。自分の関心を深めていくと、むしろ知らないことが広がって行く。知りたいという気持ちを持ちつづけている限り、探究に終わりがくることはないのだ。

てきせん大学を修了した今も、これからも研究し続けたいと思う。在野の研究者でありたい。複数の障害を抱えて生まれた星子さんの誕生をきっかけにして、生命の研究をし続けている最首さんのように。

明治初頭の自由民権運動当時、日本中のあちこちで、市井の人々が憲法草案を練った。仕事を終えた夜に勉強会を開き、議論し、自分たちの理想とする草案を書き上げた。そこには「この世界を自分たちがつくっている」という高揚感があったに違いない。彼らの書いた草案の中には永久平和のための武力放棄の条文さえあった。武器がなければ戦争は起きない。しかし、武力放棄を唄った憲法はいまだ日本にしかない。100年も昔の人々が考えたことが、今なお最先端なのだ。今の自分から始まって、自分の頭で考えることは時代を超えるのだ。

てきせん大で学んだことの大きな一つは、自分と他者を徹底的に尊重することだ。それが誰もが幸福である社会を実現することにつながると僕は思う。てきせん大においても、価値観の相違による葛藤は限りなくあった。その中で、他者を尊重しようとする時、自分とはあまり違った存在である他者を想像しようとする姿勢が大事であるということを実感してきた。“自分の価値観とは違った他者を想像し尊重する”ことは簡単ではない。他者への想像力を持ちがたい人に対するとくじけそうになる。そして、多数の圧力を感じる時、むしろ自分を尊重することをあきらめて多数におもねりそうにもなる。そのような時、尊重するなんて意味がないじゃないか、無力じゃないかと思うときもあった。でも、たとえ相手が自分のことを想像してくれないとしても、自分がそうしない理由にならない、と思う。

修了後は仲間と立ち上げた映像・デザインの社会的企業で働くことになる。働く人が生き生きとできる会社を求めて、数年前に仲間と創り出した。働くことは自分を削ることだ、と思っていたころから考えると、隔世の感がある。今は、このように生きていく自分自身が研究素材であると思う。人や自分を幸福にする生き方がどのように実現できるか、そしてどのような困難があるのか。僕がこれから歩く道は、多数の人々が歩く道ではない。しかし、歴史が記録されはじめてから今日まで、少なくない人が歩いた道の延長にある、とは思う。

インドの美術館の階段の踊り場の壁に、‘my life is my message’ (私の人生が私のメッセージだ)というマハトマ・ガンディの言葉が書いてあった。自分が歩く道が、光を放ち、てきせん大学に入るときに奈落に見えた空間に明かりが灯ればいい、と思う。

社会学者の見田宗介の「まなざしの地獄」は、永山則夫がどのように追い詰められていったのかを深める中から現代社会をありようをえぐりだしたすぐれた研究である。この人生が終わるまでに、一つでもそのような研究をしたい。

宮沢賢治は農民芸術概論綱要に「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」と書く。彼が歩いた道は、僕が歩く道につながっている。僕は、誰もが幸福に生きられる社会を求めよう。僕が一歩足を踏みしめるたびに、一歩ずつ僕の歩く地面は踏み固められていく。命が尽きる最後の瞬間まで、たゆまなく、考え続け、表現し続けて、生きていきたい。

【OB・たけし】